古典双眼鏡、特に戦前のノンコート品に手を出すこと自体あまり機会がありませんでした。本サイトで唯一レビューしているのはZeiss Theatis ポケット双眼鏡だけだったと思います。
binocularsreview.hatenablog.com
ノンコートTheatisの印象は、皮肉にもコーティングが無い+凝った硝材不使用故のカラーバランスの良さと、美しい外観の仕上げや工作物としての高い工芸品的価値が所有欲を満たすというものでした。
未だレビューしていませんが、以前所有していたヘンゾルトのDiademにも同じ印象を持っています。(戦後Zeiss のガリレオ式Diademも含め個人的には大好きな双眼鏡)
クラシック双眼鏡を光学性能の観点で考えた場合、現代ハイエンド機が多くの点でそれらを凌駕するのは当然の事として、双眼鏡や単眼鏡を個人が使うアイエイドのツール・デバイスを通したフィルターで外界を楽しむという視点で言えば、あらゆる光学性能のチェックポイントは必ずしも個人が重視する点や感性と合致しないどころか逆のベクトルで評価される場合があるとも思っています。
というのも、クラシックカメラやレンズ描写にも興味がある私としては、最新のSony GレンズやFujinon Xマウントレンズには業務にも耐える描写性能、クラシックレンズには最新レンズには無い良さがそれぞれあると考えます。
例として、今回のDeltrintemの横に写っている蛇腹のフォールディングカメラ、これは同じく1930年代製造のドイツフォクトレンダー社 Bessa 66というロールフィルムカメラです。
このカメラに装着されているノンコートのHeliar 7.5cmは、戦後のBessa IIに装着されているコーテッドのColor Heliarレンズよりもカラーバランスの良さや、穏やかに人物と風景をあるがままに陰影の余韻をもってフイルムに取り込む力があり、私的銘玉レンズの5本指に入る逸品です。 戦後のコーティング付きレンズが着色し、戦前のノンコートレンズが瑞々しく、感性によりそうような描写をする理由が理解できませんでした。また、戦前のカメラに複数触れるにつれ、レンズも含め丁寧に整備され販売当時の状態に近づけたもので無い限り、本来の性能には与れないことも知りました。
特に1960年代後半以降の東ドイツ側製品はレンズも双眼鏡もコストダウンの余波が見え始め、使用された質の良く無いグリスが系内に揮発・蒸散し、汚れていない様に見えるレンズ面が実は黄色く着色し眠い見え味の状態というものを多数見てきました。かくいう私も当初はその状態が発売時の状態だと勘違いしていました。
本題です。
Carl Zeiss Jena Deltrintem 8x30 1936年製造品 視界8.5度 重量400g
そして本機は、日本国内で随一と思われるZeissをはじめとするビンテージ双眼鏡専門の修理・販売を手がける BLRM Y’s OPTICAL によるレストア済み品です。
実機を手にした感想は、前述の戦前のカメラと同じくその当時の技術と物量をかけて製造されたその当時の状態、またはそれ以上の状態に復元できる技術力と機材への造詣の深さ、愛情を感じられる仕上がりでした。
レンズ・プリズムのクリーニングやその丁寧さ、古いグリスや腐食した部材への手当て、表面塗装やグッタペルカの仕上げ、目幅に合わせた視軸調整とその精度
そして議論はあるとは思いますが、製造当時になされていないプリズムやレンズコバへの黒色塗装追加など、希望に応じてオリジナルからのアップグレードが可能です。
本機もオリジナルでは行われていないプリズム側面と接眼の視野レンズ側コバの黒色塗装が施されています。
通常のDeltrintemよりアルミニウム素材が多用され軽量であること(実測415g) も特徴の一つで、実際のフィールド使用では超軽量である利点を実感できました。
そしてなにより有名なのは、この双眼鏡にRichterの非球面接眼鏡が採用されていることです。
https://drive.google.com/file/d/1MaoB5Yk-wjlnb6vjgk_u7-aN3BVM1oiH/view?usp=sharing
当時の特許コピーを上記リンクにアップしています。内容を見てましょう。
R.Richter Application filed 6/22 1932年 Patented 7/31 1934年
2群4枚構成 対物側視野レンズ 1枚(L1) アイレンズ側1群3枚(L2.L3,L4)
硝材構成 L1 BK7, L2 BK7, L3 SF2, L4 BK7 と、使用されているガラスはとてもシンプルな物
非球面は2群目のL2外面に採用され、中心部分が球面の曲面から直径の1/30ほど肉厚となるnon-sphericalであり、曲面はparaboloid(放物面)となる
従来型のデザインと比べより広視界で歪みが少なく、フリントレンズを複数採用しなくとも同程度の色収差・球面収差の補正を可能とし、複数の空気面を持たないことにより透過率を改善できる(一部意訳)
といった内容です。
興味深いのは現在「非球面」という意味で使われるAspherical という単語ではなく non(非)spherical(球面)が使われている事です。
コーティング技術が一般的に使用される前であるため、可能な限り空気接触面を減らした設計で、何との比較なのか読み取れませんが従来より12%透過率が改善できるとあります。
吉田正太郎先生の本にもこの特許の紹介があり、「特許例は焦点距離100とした場合、ひとみ距離0.433、見かけ視界90度(JIS旧基準)、デルターという商品名の双眼鏡で市販された」とあります。
そうです。
かの有名なZeiss Deltarem 8x40 (センターフォーカス) , Delter (IF式)の事を指しています。
このDeltrintemモデルにRichter非球面接眼鏡が採用されていると書きましたが、実際入手できる文献上ではその記述を見つけられませんでした。
Delterより普及バージョンと言えるDeltrintem(その当時の販売価格差は2倍)に非球面が採用されていたのか。
この答えは本機をレストアされたBLRM Y’z OPTICALのサイト運営者であり代表の鈴木様から教えていただきました。
上記特許デザインのF=15.4mmでの簡易図そして、前出のレストア時のアイピース画像です。(転載許可を得ています)
明らかに実物もデザイン図のような放物面に仕上がっています。何より硝子が美しいです。
実視でのインプレッションです。
機体が軽量でストラップを首にかけた際の負担がとても少ないです。軽量ではありますが、ホールド性は良く、軽量ゆえに手振れが増えるという実感はありませんでした。中心像は非常に鋭く、良像の範囲は中心から半径で約20%程度です。外周方向にかけて非点収差と像面の波打ちがあり、外周は輝度の高い部分に倍率色収差が強く見られます。像の認識可能さは保ちつつも流れるように急激に崩れ、外周は回転ボケのようになります。
その鮮鋭な中心解像力は中心からごく限られた範囲であるため、何かに注視した際の左右の立体視合致がうまく合いにくく感じる時がありました。こういった場合は視軸が僅かにずれていたり、眼幅やフォーカス、そして視度補正を触ることでベストな視軸からズレていることが殆どですが、本機ではそのあたりの機械精度と再現性は良好でした。
JIS旧基準で見かけ視界約70度のアイピースは、BLRM様から提供された歪曲収差の模式図では僅かなピンクッションであるが、この個体の実視では縦の直線物を中央に入れると中心から外れた左右のある狭い範囲が樽に少し膨らみ視野外にかけ元に戻る特異な形状です。
日中の屋外、天候は晴(曇多し直射日光少ない)という状況下での観察です。
Deltrintem 8x30 iPhone SEで撮影
戸外で明るい場所では接眼レンズ側からの光の映り込みがありコントラストが低下します。
これはノンコート、アイポイントが短いことからアイカップが存在しない仕様等の理由なので仕方がないところです。基本は裸眼での観察が推奨で、寒い時期は眼球からの水蒸気がアイレンズ側を曇らせ易いですが開放になっているので乾きも早いです。
赤・橙、桃色各色のヤマツツジと新緑の色彩表現と柔らかなコントラストが素晴らしいです。
新緑のシャープさ、逆光に透き通る木々の葉の葉脈が特に綺麗に見えます。 接眼レンズ側からの映り込みや天空からの強い光が入らない状況、例えば木陰、曇天、雨天は絶好の条件で像が浮き上がるような、質感を伴う素晴らしい立体像を得られます。
新緑の緑の表現が最新のNL Pureなどとは全く違ったテイストで表現され、中心範囲の写実性は同等でありながら色彩表現とコントランスとで言えば水彩画と油彩の違いにも例えられるかと思います。あまり他機種と比べるべきものでは無いと思いますが、強いていうとKOWA Genesis 33の日本画調の描写に回転ボケやコントラストの柔らかさを足し、生物の瑞々しさはZeissが断然上という苦しい例えになります。
Zeiss Theatisの戦前モデルでも書いたように、単層・多層コーティングが一切ないため、コーテッドレンズ系に比べて透過率(海外サイトの計測では透過率60%)やコントラストに若干劣り、夜間の星空では光量の足りなさが前面に出てしまいます。 光量のある日中観察ではカラーバランスの点でニュートラル(眼視の印象に近い)という、光学薄膜技術の進歩を否定しかねない見え方です。
必ずしも内面反射の影響だけとは言えない独自の暗部の描写があり、現代機では暗部がストンと黒く落ち込んでしまうところから中間調にかけてなだらかに、かつ薄くグレーがかった見え方をします。グレー調は像自体の艶感を損なう様な物ではなく、粗悪な製品にある単なる低コントラスト状態とは違うものです。
観察環境がより快晴で強い光線が入る場所では、視野全体に拡散するグレアの一種のようになってしまい、この機種の味わいは個人的には日陰・曇天・雨天下で特徴が出ると思われます。そういった意味では天候・環境を選ぶ機種と思います。
焦点内外像
野暮を承知で人工星にコリメーターによる各色の焦点内外像を見てみました。
内外の対称性も双眼鏡としてはまずまず良好です。各色とも球面収差は補正過剰ですが、輪帯が比較的綺麗にでており、特に青色の内外像がここまで綺麗にでている双眼鏡は非常に稀です
各色の焦点位置は緑・青が非常に近く、反対に赤が2色よりかなり遠いこれも珍しい色収差補正状況です。通常、EDレンズを使用したアポ・セミアポであっても緑・赤の位置を揃えて青を飛ばすパターンが多いからです。この補正状況が屋外にて特に緑や青の物体を観察する際に像がとても整っている印象をもった要因かもしれません。
ここまで普通に現代双眼鏡と同じ目線で見ていましたが、ふと我に返った際に1930年代の双眼鏡である事を思い出してその技術力に驚きを隠せません。
資料提供
BLRM Y’z OPTICAL 鈴木様
様々な情報のご提供およびアドバイスを頂戴し有難うございました
参考文献およびサイト
天文アマチュアのための望遠鏡光学・屈折編 吉田正太郎
双眼鏡防湿庫 Deltarem 8x40 尊敬する達人ノクチュアさんのサイト
https://zeiss.hatenadiary.jp/entry/2021/03/27/172921
FROM ZEISS DELTRINTEM 8X30 TO ZEISS VICTORY SF 8X32, SWAROVSKI NL Pure 8x32, GPO PASSION ED 8x32 AND KOWA 8x32 BD-II; Dr. Gijs van Ginkel June 2021